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自主廃業は避けたかった。

埼玉伸管工業株式会社
代表取締役

清水恭臣

埼玉伸管工業株式会社
顧問

綿谷泰幸

埼玉伸管工業株式会社 代表取締役 清水恭臣

1973年山崎金属産業入社。営業部門や人事総務部門などに従事。1997年取締役に就任。
2005年常務取締役に就任。2013年退任後に同社顧問となったが、本件M&Aをきっかけに、埼玉伸管工業の代表取締役に就任。 現在は親会社となる山崎金属産業との橋渡し役として新たな施策を取り入れながら更なる企業成長への陣頭指揮を執っている。

埼玉伸管工業株式会社 顧問 綿谷泰幸

1975年大阪芸術大学卒業後、浅草の喫煙具問屋に入社し営業職として従事。1978年系列貿易商社へ移籍しスイス営業担当となる。1986年義父から後継者として請われ埼玉伸管工業に入社。1994年専務取締役就任。オフコンによる業務全体のシステム化を諮る。1997年代表取締役に就任。経済環境や産業構造の変化など紆余曲折のあった時代を乗り切り、2代目社長として入社以来30年に亘って会社を守り続けた。本件M&A後は顧問として残り、後任社長の相談役として会社を見守っている。

――まずは綿谷様に、埼玉伸管工業の沿革、
および業務内容からお聞かせいただけますでしょうか。

――まずは綿谷様に、埼玉伸管工業様の沿革、および業務内容からお聞かせいただけますでしょうか。

埼玉伸管工業は、私の家内の父親によって、昭和34年に創業された会社です。
元々、義父は戦後、自分の叔父が経営していた朝霞伸管工業に就職し、その後、独立を果たしたと聞いています。主な業務内容としては、昔も今も変わらず、真鍮やアルミニウムのパイプを引き延ばして細くする、伸管業という特殊な製造業となります。現在は、メインの事業として、真鍮を伸ばして金管楽器の材料や多様な機械部品、精密部品、自動車部品、通信機器など、あらゆる分野の工業製品の材料を製造。またアルミニウムに関しては、一眼レフカメラの交換レンズのボディ部分をはじめとする光学機器の部材に使用されています。この仕事において、第一に求められるのは真円度、すなわち可能な限り、正確で歪みのない円であること、さらに外形、内径の寸法公差が±0.05mm、特殊なものでは±0.03mmと高い精度であることです。

作業としては、材料をなましてから型を通して引っ張るという単純なもので、なおかつ設備自体は決してハイテクなものではありませんが、管をなるべく曲げないように引き伸ばしたり途中で切れたり、歪みがでたりせぬように、加工率を考えながら作業を進めます。もちろん途中工程で目的の寸法になっているかチェックを重ねながら、キズも入らぬよう気をつけています。単純ですが、高度で繊細な技術が必要となる仕事です。

――綿谷様が、埼玉伸管工業を受け継ぐことになった経緯をお聞かせください。

――綿谷様が、埼玉伸管工業を受け継ぐことになった経緯をお聞かせください。

私の家内は三人姉妹の長女で、義父としては彼女が小さな頃から“将来、婿を取って会社を継がせたい”という希望を持っていたようです。私は、そういった事情を知らないまま、家内と付き合い始め、後になってから“養子に入らなくては、結婚は難しい”と聞きました。
それは、今どき理不尽な話だと思いましたし、元々養子になるつもりなど毛頭もありませんでしたので、結婚は無理だろうと思いました。しかし、何となく釈然としない思いがあったので、義父に会いに行って「そういう話で彼女を縛るのは可愛そうだ」と文句を言ってしまったのです。そうしたら、やけに義父に気に入られてしまって、「会社のことはいいから好きにしなさい」と言われてしまい、そこからバタバタと信じられないほどのスピードで話が進み、結婚することになってしまいました。

結婚当初は、私も貿易の仕事に就いて、順調なサラリーマン生活を送っていました。やがて長男が生まれ、長女が生まれ私が33歳の時に、もう一度、義父から「後継者がいなくて困っている。この先が不安で仕方がない」と、再度、承継の要請があったのです。当時は50名ほどの従業員を抱えていたので、お義父さんもお困りなのだろうとは理解していました。そして、何よりも家内が可哀そうだと思ったのです。恐らく女の子が3人生まれた時からずっと、義父は悩み続けていたのでしょう。だから家内にも子どもの頃から言い聞かせていたわけですから、会社に入ってくれる人でなければ結婚できないと思い込んでいたわけです。

結局、彼女は長女としてこれまで重い責任を背負わされてきたのだし、こういった話が持ち上がる度に気を病んでいるのだろうということは想像できました。だからそれを、私が継ぐことで解消してやれると思ったのです。私もずっと、このままサラリーマン生活を続けていくより、少し経営について勉強してもいいだろうという気持ちがあったのも確かでした。

私の場合、常に向こうから大きな波が押し寄せてきて人生の岐路に立つ場合が多く、そんな時はその流れに逆らわないようにして生きてきましたから、そんなタイミングがまた到来したのだと思ったのです。

――綿谷様が入社した当時の、埼玉伸管工業の状況を教えてください。

――綿谷様が入社した当時の、埼玉伸管工業の状況を教えてください。

当時の会社は、生産量も現在の倍近くあって、とにかく忙しく、私も入社を果たしたその日から現場に入り、連日、残業づくめの日々を過ごすことになりました。従業員全員を残すわけではなく、工場長と私だけになって、夜の10時まで、翌日に使用する材料の準備を行っていました。
私が入社したのが昭和61年ですから、ちょうどバブル景気が始まったばかりの頃。社会全体はもちろん、私たちの会社もかなりの受注量があり、景気の良い時代でした。ライターなど真鍮製品も世の中に多く出回っていましたし、コピー機やファクシミリといったOA関係に使用されていたアルミ部材も相当量の需要がありました。ところが私自身は正直、戸惑いの連続でした。社長の娘婿であった私にいきなり社員が胸襟を開くわけでなく、やはりどこか距離をおかれていましたね。職人気質の世界で、技術は見て盗めと、マニュアルもない時代でしたから、現場で彼らの作業を見ながらひたすら勉強する日々でした。

ところが、そんな現場修業が続いたのは、わずか一年間ほどのこと。その後、先代から「パソコンで給与計算をしたいが、みんなわからないから、お前がそれを導入してくれないか」と指示を受け事務方に入ることになったのです。それは世の中にパソコンが普及し始めた頃で、メディアドライブも3.5インチか5インチのフロッピーのどちらかを選ぶような時代。パソコンの選定はもちろん、ソフトウェアも探さなくてはなりませんでした。
ところが私にはまったく知識がないわけですから、本当に困ってしまって…。ハードの導入に関しては、業者と相談しながら進めていきましたが、そこからはひたすら一人で勉強するしかありませんでしたね。パソコンやソフトの操作はもちろん、給与の仕組みや社会保険、税金、健康保険、年金、雇用保険などもすべて勉強して掌握しないことには、給与を計算することができません。そして2週間ほど社長室に篭もり何とかそれを動かせるようにしたのですが、給与担当者もかなりの高齢だったのでパソコンは使いこなせません。

結局、私がそのまま運用まで任されるようになったのです。その後、総務全般を担当するようになって、管理業務全般に関わっていくことになります。
この会社がどのような動きをしていて、何を商っていて、どのくらいの売上があるのか、全体像が把握できるようになりました。今から考えれば、それは先代が用意した私に対する、経営者になるための帝王学だったのかもしれませんね。

それでも、会社への愛着が生まれるのは、ずっと後のことでしたね。どんな仕事でも3年続ければ自分の居場所ができると思っていましたが、ここの会社に関して言えば、たった3年では、とてもそういう状況にはなりませんでした。何がどうなっているのかと、探っていくだけで精一杯でした。
そこでまずは従業員に受け入れてもらうことが大切だと思っていましたし、いずれは彼らの上に立たなくてはならないのだけれども、先代のように技術があるわけではないし、創業者ではないのでカリスマ性も持ち合わせていない。上からモノを言っても聞いてくれるわけが無いと考えました。だから自分の目線を皆に合わせて、仲間として働こうという意識を強く待ったんです。その姿勢は結局、社長になってからも変わりませんでしたね。皆と同じ目線に立っているからこそ、はじめて見えてくるものもある。それを経営者の感覚との間で、うまく折り合いをつけていかなければならない。そんな気持ちで、少しずつ経験を積み重ねていきました。

――綿谷様が社長に就任された当時の思い出をお聞かせください。

――綿谷様が社長就任された当時の思い出をお聞かせください。

社長就任前の専務時代から古参の社員の扱いには苦労しました。彼らは職人堅気というのか仕事の上では様々な場面で助けてはくれましたが頑固で保守的でした。

そんな彼らに対して「こういう風にしましょう」と意見をしたところで言うことを聞いてくれるわけがありません。ところが、徐々に定年退職などで欠員が生まれ、その度に私が直接面接をして新しい社員を採用。メンバーが入れ替わっていくことで、ようやく私が思うような経営ができるようになりました。ここらは二代目ながらの苦労といったところです。

私は平成9年に社長に就任したのですが、悪いことにそのあたりから景気が急に冷え込んで売り上げも落ち始め、会社の状況が悪化。正直言って、これまで上手くいっていた会社なのだから、そのまま成功体験を継承していれば良いだろうと高をくくっていたのですが、景気の悪化によって、そんな甘い考えは通用しなくなっていました。 かといってリストラは避けたかったので休業補償を受けながら徹底的にコストダウンを進めました。

会長職となった先代は時々出社していましたが、私の方針については一切口を出してはこなかったので、私が思う通り、経営改革を進めさせてもらいました。最初の一年は赤字になってしまいましたが、合理的な経営により乗り切っていこうと決心していました。

私はウチの会社は海面すれすれに低空飛行を続けているボロボロの飛行機のようだと思っていました。少しでも操縦を間違えたら失速して海面に墜落してしまう。
そうならないために、いかにうまく飛ばしていけるか、それは経営者としての力量に掛かってくると、そのように考えていました。すでに銀行の借り入れも多くありましたし、さらに運転資金を上乗せ融資してもらって、どのように操業していけるのか、最適なバランスを考える必要がありました。ここは経理財務に特化して乗り切らなくてはいけない。経理実務や決算書の仕組みについて徹底的に勉強しましたね。もう、やるしかないと思っていました。自分の家族も大切ですが、従業員の家族も引き受けているわけで、40人の社員がいれば、その家族を含めた100人もの生活が今の私に委ねられているのだという責任を重く受け止めていました。この道は、岐路に立った自分が、流れに従って選択したのですから、それに乗った以上は逃げてはいけないのだと思っていました。

――その後は、どのように会社経営の舵をとってこられたのですか。

――その後は、どのように会社経営の舵をとってこられたのですか。

私は構造改革を進めて、経営体質を改善しようと決めました。これまでメインだったOA機器向け製品は受注量こそあるものの、徐々に品質やコストに関する要求が厳しくなっていました。このまま続けていても利益が少ないので、思い切って撤退を決意し、当時まだ出荷量の少なかったカメラや光学関連向けといった、付加価値の高い製品群に生産をシフトすることにしました。

一時的に売り上げは落ちたものの、それが順調に育ち、リーマンショックでは苦戦をしましたが、それ以降も伸びを見せたカメラ需要に押され、売り上げも利益も好調に推移していきました。一方、採算の厳しかったOA機器向け製品は、その後、加工費の安い中国へと生産が移ってしまい、国内では一気に冷え込んでいきました。苦肉の策とはいえ、本当に良いタイミングで構造改革を進めることができたと胸をなでおろしました。

また徹底的なコストダウンによる合理的経営を進めながら作業の見直しを行い、少人数でも対応できるように“全員フォワード”の体制を敷きました。会社の特徴を少ロット・多品種・短納期と標榜したのもこの頃です。

さらに定年を60歳から65歳へと延長し、給与は抑えつつ、公的補助を活用して本人には負担をかけないようにし、採用した若手社員と彼らにペアを組ませて、技術伝承をするよう進めました。このような施策を打つことで、リーマンショック後もすぐに業績を立て直すことができたのです。

――M&Aを検討するに至った経緯をお聞かせください。

――M&Aを検討するに至った経緯をお聞かせください。

再び黒字経営が続き、少し気持ちに余裕が出てくると、自分も年を取ってきますから、将来のことを考えるようになってきます。すでに息子を社員として迎え、勉強をさせようと、私と同じように経理や総務を担当させていました。もちろん、継いでもらいたいという気持ちを持ちながら、その適性があるかどうかを窺っていました。

一方、私自身がこれまで経験した苦労を彼に負わせるべきか?という迷いが常にあったのです。私はある程度の年齢になって転職してきたため、多少、打たれ強い部分はありましたが、息子にはそれがない。同じ苦労を味わったら、それに耐えられるだろうかという心配があったのです。

「荷が重過ぎるだろう」それが率直な感想で、息子も同じだったと思います。
そんな話を親子で直接交わしたことはありませんが、親だから息子のプレッシャーは感じていました。

それでは将来どうするか?頑張るだけ頑張って、70歳過ぎまで続けて、後は自主廃業をするしかないのか?しかし、若い社員もたくさんいるので、そうもいかないだろうと。常に板挟みの状態にありました。これは私と家内の間の共通の悩み。それこそ、途中から会社を継いだ私のような立場の経営者と創業者の大きな違いなのかなと思いました。

そんな時、M&Aキャピタルパートナーズさんからダイレクトメールをいただいたのですね。M&Aという手法は大企業だけのことで、ウチのような中小には関係ないと思っていたので、正直、最初はランダムに送られたメールだろうと思っていました。それでも気になったので読んでみると、一度お会いして詳細に話を聞いてもいいかなと思いました。

やがてご担当の方からお電話をいただきお会いしたわけですが、その時、M&Aには承継問題の解決、従業員の雇用確保、借入・負債からの回避、創業者利益の享受という4つのメリットがあると伺いました。全体に良い話しばかりだが、そんな事が本当に可能なのだろうか?と懐疑的な思いはありました。
それはこんなに古い建物や設備を持つ会社にそれほどの価値があるのだろうか?しかも銀行の借り入れも結構ある。これらを引き受けてくれる譲渡先が見つかるのか?という、率直な疑問から生まれる思いだったのです。

しかしながら同時にこれが長年の悩みだった承継問題の唯一の解決策だと強く確信もしました。

――M&Aが現実味を帯びてきたのは、いつのことだったのでしょう。

M&Aが現実味を帯びてきたのは、いつのことだったのでしょう。

加工業を探している企業のリストを拝見しはじめ、ウチのような会社でも、M&Aの候補になれるのだと。そう思えるようになってから、遠い存在だったM&Aが身近なものに感じられるようになりました。その頃から何とかこれを実現しようと強く思い始めました。

もちろん、多少の逡巡はありましたよ、引退するにはまだ若いですし。しかし自分が身を引くことで、すべてが上手くいく、良い方向へと進んでいくのであれば、このチャンスを逃してはならないと。“もう少し歳をとってからにしてください”というわけにはいきません。今は会社の業績は良くても、この先悪くなるかもしれない。そうなってしまったら、もうこの話は成立しないだろうと。業績が良い時に乗らないとだめだと強く思いましたね。

しかし、それと同時に、相手選びは慎重にいくべきと考えていました。だから、紹介をいただきはじめた当初はどうしても、その企業と私たちが一緒になったときのイメージが湧かずピンときませんでしたし、一緒になるメリットが見いだせませんでした。ところがある時、山崎金属産業さんがリストアップされ、詳細を拝見すると、本来は流通問屋でありながら、自社で特殊な金属加工をやっており、しかも資本も大きいし、122年の歴史がある優良企業であることがわかって、これは一緒に面白いことができるのでは?という気になりました。
相手の会社とウチが一緒になった時に、お互いに相乗効果が生まれなければ、ただ飲み込まれるだけのM&Aになってしまう。それでは後々、社員のみんなが苦労するのは目に見えて明らかです。そのように考えた時、山崎金属産業さんと言う会社がピタッとハマったような気がしました。山崎さんの販売ルートはウチよりも広いので、そこに参加することによって売り先も増えるだろうし、新たなビジネスチャンスがそこから生まれるという期待があったのです。

――最終的にM&Aを決断されたのは、どのタイミングだったのでしょうか。

最終的にM&Aを決断されたのは、どのタイミングだったのでしょうか。

トップ面談で山崎金属産業の社長様とお会いして、その時の印象が大変良かったですね。私より一回りお若い方でしたが122年の歴史がある会社の社長様と言うことで、非常に落ち着いていて風格もありカリスマ性もお持ちなので、この方であれば従業員を大切にするだろうという直感がありました。
お会いして帰る頃には、これはぜひお話をまとめたいと強く思うようになっていましたね。もはや会社を譲渡するという感覚ではなく、ビジネスパートナーを獲得するという、営業的要素が強かったのかもしれません。

――M&Aを進める段階において、もっともご苦労されたのは、どのような点にあったでしょうか。

守秘義務があるので、誰にも相談ができないのは非常に苦しかったですね。従業員にも話しができない。
正直言って、営業のトップぐらいには相談したいところでしたが、それができないのがとても辛かったですね。さらに話が進んでくると、会社の価値を推し量るための査定が入るのですが、財務経理、マーケット、設備、行政に対する届け出の有無や法的な問題はないかなど、細かくチェックが入り、それをすべて一人で対応するのも非常に大変でした。そんな中、M&Aキャピタルパートナーズさんの営業担当者が親身になってチカラになってくれたのは非常に心強かったですね。2014年の6月にはじめてご案内をいただいて、山崎金属産業さんをご紹介いただいたのが同じ年の12月末。そこから本格的に動き始めて、ほぼ半年間で成約までこぎつけましたが、その間は本当に夢中でしたし、あっという間に過ぎていきましたね。

――M&Aが成立した時の率直な感想をお聞かせください。

M&Aが成立した時の率直な感想をお聞かせください。

成約した時には、本当にホッとしました。2015年7月24日の金曜日に調印して、週末を挟んだ月曜日に山崎社長と清水新社長が来社され、従業員の前で発表しました。 大きな混乱はありませんでしたね。
息子には、従業員より先に話をしました。息子も家内同様、長男としての重荷に耐えてきていたわけですから、その重荷を親としては取り除いてやりたいと思っていました。何が何でも血族で繋いでいく必要はないのだよとね。大事なのはお爺ちゃんが築いた会社が存続していくことだと伝えました。

息子もホッとしたようで、「それでいい」と返事がありました。

さらに山崎社長からは息子には引き続き今のポストで頑張ってほしいという事と、それでももし居づらくなるようであれば、山崎金属産業の本社に来てもいいとまでおっしゃっていることを伝えると、
息子は「今までやっていた仕事を続けたい」と言いました。経理部長だった家内も2015年の8月で退職し、今では息子が経理総務の業務をなんとかこなしています。仕事量は増えたものの、一生懸命に頑張っている姿を見て、親としては安心しているところです。
お約束頂いた通り、従業員全員が引き続き継続雇用となり、待遇も保証されているので安心しました。
新社長の号令のもと、一丸となってISO取得に向けての取り組みを開始。グループリーダーが決まり、闊達に意見を交わして一生懸命にやってくれている様子を見ると、とても嬉しいですね。会社の雰囲気も大きく変わりました。自分たちの仕事に対するマインドが前に向いているように感じています。というのも、やはり安定した資本となって、自らの将来に対する不安が取り除かれたのが大きいのだと感じています。不具合のあった機械設備も徐々に更新されるのも嬉しいようです。今までは、予算がないから待ってくれと言うのが多かったので、皆も我慢してくれていたのでしょう。これも山崎金属産業さんのおかげだと思っています。

私自身、今は顧問と言うカタチで会社に残っていますが、それも一年契約なので、今年の7月で終了します。二つの会社がひとつになったので、色々な仕組みを作りかえていかなければならず、それも当然、相乗効果が生まれるような仕組みにしなくてはなりません。仕入れの方法、経理など細かなことに対して意見をさせていただき、社長をサポートさせていただいています。
今後は、「もう少しいてくれなくては困るよ」という話にならないよう、伝えるべきことは伝え残さないよう心掛けています。まあ、実際に困った時には家も近いですし、電話をくれればすぐに来るよとも言っていますが。
慣れ親しんできた会社ですからね。確かに少し寂しいような気もしますが、自分が選んだ決断ですから、当然のことと受け止めています。
古い社員は、「社長が決断してくれたから未来が開けた」と感謝してくれています。皆も、口にこそ出さなかったけれども、“この先どうなるか?”という不安があったのでしょうね。それが払拭できて本当に良かったと思っています。

個人的には今後、今まで仕事をしながらではなかなか準備ができなかったことをやっていきたいと思っています。 具体的には写真や絵の勉強をしたり、大学の公開講座で学ぶのも良いかなと思っています。夫婦で旅行にも行きたいですね。これまで、自分に不足していると感じていた部分を埋めながら、充実した第二の人生を歩んでいきたいと思います。

――ここからは、清水新社長を交えてお話を伺います。
まずは清水様から社長就任の感想をお聞かせいただけますか。

――ここからは、清水新社長を交えてお話を伺います。まずは清水様から社長就任の感想をお聞かせいただけますか。

清水 山崎金属産業からひとりでこの会社にやってきたのですが、周囲からも“一人で大変だな”と冷やかしもありましたもので、それなりに緊張して参りました。
しかし初出勤の時から非常に温かく迎えていただきまして、それ以降も変わらずに接してもらっているので、順調に溶け込めていると感じています。ただ、綿谷さんが7月27日、社員に発表したその晩に倒れられて入院することになったのには驚きました。緊張していたうえ、さらにそういったアクシデントに見舞われまして、正直言って言葉にならないほど戸惑ったのは確かです。






綿谷 いきなりここにいた人がパッといなくなったわけですからね、大変だったでしょう。その節は大変ご迷惑をおかけいたしました。結局、1ケ月ほど出社できませんでしたからね。

清水 とにかく無我夢中でしたよ。幸い、綿谷さんの奥様が経理部長でいらっしゃったので、目いっぱいご主人の分までバックアップしてくださって、何とかここまでくることができたのかなと思っております。

綿谷 あれ以来、家内には頭があがりません。

――この一年弱という期間を振り返ってみていかがでしたか。

この一年弱という期間を振り返ってみていかがでしたか。

清水 基本的には、この会社の企業文化を尊重する友好的M&Aですので、会社名も社員も従来通り残しています。とはいえ、すべてをそのままということではありません。
新たな取り組みとしてISOなど、今までにないものを取得することで能力を高めていこうという考え方があり、それを今実行している段階です。方針が変わったことで、社員も刺激を受けているのではないでしょうか。一年近くが経過し、もはや“無我夢中”の段階は終了。徐々に、あらゆることを整理しながら改革し、徐々に前に進めてきました。昨年末には初めての賞与を計算、支給し、少し落ち着きましたね。色々と口出しをしたり、新たな取り組みを進めてきましたが、比較的、柔軟に受け入れていただいており、反発を感じる場面もありません。非常にスムーズに承継が進んでいると思っています。

綿谷 社員自身、根底に問題意識があったのだなと気づきました。それをいかに引きだせるかは社長の技量に掛かっていると。そう考えた時、自分が社長として引っ張り出すことはできなかったと反省する一方、清水社長がうまくリードされていることに感服すると同時に感謝もしています。問題意識が表面に出てきたとき、彼らも今こそが自分たちの会社を変えるチャンスなのだと、共通意識を持っているように感じています。私が今まで、さんざんやれと言ってきたことも、意識が変わることでいとも簡単にやっている場面も見受けられました。清水社長が一人一人が持っている潜在能力を引っ張り出し、私の力が及ばなかったところに踏み込んでいらっしゃるという印象があります。

清水 社員も皆、変えていきたいと思う時期だったのかもしれません。そういうタイミングで、こういうことが起きたので、上手く共鳴したのではないでしょうか。仕事と言うのは、ずっと流れているとマンネリになりがちですが、今回のことが変化への梃子になったように感じています。

――現在は、お互いの存在をどのように感じていらっしゃいますか。

現在は、お互いの存在をどのように感じていらっしゃいますか。

綿谷 わずか一年弱の短い付き合いでないような気がしてなりません。私にしてみれば、はじめてよき理解者ができて、そばにいるという感覚になっています。社長って孤独なんですよね。こうして同じ思い、同じ経験をされているので、自然に親近感が湧いてしまうのですね。

清水 そうですね。問題に直面すると、素早く理解・共感していただき、常に先回りして適切なアドバイスをくださっている。私自身、どうしても甘えてしまうのですが、素晴らしいパートナーとして、今後もご助力いただければと思っています。

――最後に、清水社長より今後の目標をお聞かせいただけますか。

清水 昨年の9月くらいから、この業界を取り巻く環境が急に厳しくなり、弊社も残念ながら売り上げがダウンしてしまいました。
これをいかに取り戻していくか、考えていかなくてはなりません。幸いなことに、社員の意識は高まっているので、その土台をさらに強固なものとし、逆境に立ち向かっていきたいと思っています。

(文=伊藤秋廣 写真=伊藤元章)2016/04/21

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