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M&Aという手段を知って頭の中が整理された

あったか市場株式会社
相談役

加藤浩

あったか市場株式会社
取締役部長

仲澤美有紀

あったか市場株式会社 相談役 加藤浩

1979年徳島大学医学部栄養学科卒業後、管理栄養士としてソニー㈱の社員食堂に従事。1981年には父の体調不良をきっかけに家業であった仕出し弁当屋を手伝うことになる。その後、1984年には宅配事業を自ら立ち上げ、あったか市場㈱の前身となるクッキングフレンド(株)を設立。その後業態転換などを経て、現在の病院や介護施設への配送をメイン事業とした食品卸売業となった。M&Aを実施した2015年3月時点では従業員数約50名まで成長し、現在は相談役として同社にも引き続き関わっている。

あったか市場株式会社 取締役部長 仲澤美有紀

2006年立命館アジア太平洋大学卒業後、ブックオフコーポレーション株式会社に入社、結婚を機に専業主婦となるが、2010年には父の会社(あったか市場㈱)に入社。経理などのバックオフィス全般を担当し父を支えた。2015年には取締役に就任し、M&A後も親会社に請われ第一線で活躍。父を支えた多くの仲間とともに現在も会社の成長と発展に尽力している。

――まずは加藤様があったか市場株式会社を創業された経緯からお聞かせいただけますか。

――まずは加藤様があったか市場株式会社を創業された経緯からお聞かせいただけますか。

徳島大学の医学部栄養学科を卒業後、大手電機メーカーに就職。管理栄養士として社員食堂業務に従事することとなりました。ところが地元・坂戸で仕出しの弁当屋を経営していた父親の体調不良を理由に実家に呼び戻されて家業を継ぐことになったのです。元々、子どもの頃からリーダーシップを発揮していたというか、人の上に立って皆を引っ張っていくようなタイプでしたから、大手企業の中で働き続けることには、正直言って興味を持つことができませんでした。兄弟は5人いましたが、上3人は姉で、兄は医師。いずれ私が家業を継ぐしかないのだろうという気持ちも、少なからずあったのかもしれません。

父の会社に入り、営業企画という立場を自覚しながら事業拡大に貢献。当時、坂戸にあった大手企業の社員食堂の業務委託契約も取り付けるなど、積極的な営業展開を推し進めて行きました。 ところが父はまだ元気で、経営に関する意思決定権を持っていましたから、私の企画のすべてが通るわけではない。自分で思い通りに商売をしてみたいという欲求が次第に高まっていきました。

そこで27歳の時に起業して、一般家庭に食材をお届けする宅配事業をスタート。父の会社がバックにあるとはいえ、私も若かったですからね、“ドラ息子が来たよ”という目で見られたのか、なかなか銀行の融資を受けることができませんでした。これもタイミングというか相性なのでしょう。他の銀行を当たったときに、地元出身の元気のよい支店長がいらっしゃって、「よし、お貸ししましょう」と二つ返事で融資を引き受けてくれたのです。その資金を投入し、一気に軽トラック13台購入。パートや正社員を雇用して営業を開始しました。

――まずは加藤様があったか市場株式会社を創業された経緯からお聞かせいただけますか。

とにかく、最初は苦労の連続でしたね。一軒一軒、飛び込んで営業をかけていくのですが、一軒目で運よく契約が取れるなんて稀なこと。10軒続けて断られると、もう嫌になって、橋の下でぼんやり座り込み、夕方まで時間をつぶしているような状態でしたね。そこで自分の心の弱さを目の当たりにしました。それでも、なんとか踏ん張って、ピーク時には600軒ほどの契約者を抱えていたのですが、確実に毎月約2割ほどのお客さんが契約を取りやめていくんですね。その2割をフォローし続けるためには、かなり強力な営業力が必要になります。さらに未収金の問題も経営を圧迫していきました。集金に向かうと玄関先に小さなお子さんが出てきて「お母さんはいない」といいます。ところが家の奥で人の気配がする。明らかに居留守ですよね。私も強制的に回収ができるような人間ではなかったので、そのまま放っておくしかない。また、従業員が集金に出かけていって、そのまま出社しなくなるというケースもありました。これもまた、従業員に対して強く言えるタイプではななかったので、そのまま放っておくしかない。当時、27歳でしたからね。一方の従業員たちは30~50代の女性が中心という状況でしたから、もう私のような若造の言うことなど聞くわけがないのです。

そんなこんなが重なって、創業から2年でいったん、会社を畳もうと思ったら、悪いことに、そのタイミングで労働基準監督署から連絡が入り、「従業員から未払いの残業代があるとの訴えがあった」と攻め立ててくる始末。こちらの言い分もありましたが、もはや戦う気力もなかったので和解に持ち込み、全額補償というかたちで解決を図ることにしました。27歳にして大きなダメージを受けたのは確かです

――お若いうちに、随分と大変なご経験をされたのですね。
そこからどのようにして再起を図っていかれたのでしょうか。

――お若いうちに、随分と大変なご経験をされたのですね。そこからどのようにして再起を図っていかれたのでしょうか。

商品在庫を抱えていたので、これを売りさばかなくてはいけない。失敗から学ぶことは大きいですね。知恵がつくのですよ。次の一手をどうするかと考えたときに、まず支払いをしっかりしてくれるお客様を相手にすること、そして仕事をコツコツやっていけば、お客様も売り上げも蓄積されていくような業態をと考えるようになっていたのですね。

そういった観点で周囲を見渡すと、近所に病院がありました。これだと思いましたね。

近所の人の伝手を手繰って何とか商談に持ち込み、病院給食用の食材を私たちの会社で扱わせてくれないかと交渉したのです。今から思えば、とても強気で生意気な営業だったと思います。その病院は月50万円ほどの予算を持っていたのですが、こちらとしては、そんなことはまったく知らない。最初から「100万円くれ」といったのです。そうしたら50万円近く発注してくれるという話になりましたよ。ここがポイントですね。5万円、10万円とお願いしていたら、もはやそこまでですからね。

――お若いうちに、随分と大変なご経験をされたのですね。そこからどのようにして再起を図っていかれたのでしょうか。

別な病院に営業をかけるときに、今度は「300万円くれ」と言ってみる。すると200万円近くご発注いただけるようになったのですね。 もちろん、ただ強気に攻めていっただけではありません。大きな病院の理事長クラスとなれば、病院以外のビジネスも手掛けているケースも多いんですよね。ある病院のトップはガソリンスタンドも経営していたので、当社の配送トラックのガソリンと保険を一手にお願いするという交換条件を出す。足りなければ、父の会社の車もお願いする。商売をしていた父と母の背中を見て育っていますからね。相手にメリットも与えながら、こちらもメリットを享受するというビジネスの基本が知らず知らずのうちに身に沁みついていたのでしょう。

さらに若いとはいえ、社長である私がトップ営業するわけですから、先方もそれなりの立場の方が出てきてくださる。多少は経営の話もできますから気に入られ、「じゃあ加藤に出してやろう」という話となる。そんな流れで、どんどんお客様が増えていきました。

――その後は、どのように経営の舵をとり、会社を躍進させていったのでしょうか。

――その後は、どのように経営の舵をとり、会社を躍進させていったのでしょうか。

当時の業界構造も味方をしてくれました。学校給食や外食産業は、もっと歴史のある問屋が独占していたのですが、病院と老人ホームには近所のスーパーマーケットが食材を納めていたのですね。学校給食同様、一度、きちっとした栄養計算に基づいて組み立てられたメニューが献立表に記載されたら変更が利きませんから、食材の欠品など絶対に許されない。しかも外食産業であれば、例えば「アジフライ」は、定番として毎日メニューに乗りますが、病院では月一回がいいところ。そうなると注文単位が小さく細かくなってしまうので、大手の問屋にとってはメリットが見出しづらく、“あまり扱いたくない仕事”となってしまいます。

一方のスーパーマーケットはといえば、本業はあくまで店頭の小売りで食材配送は本流ではない。私たちにとってはそれが本業なのですから、負けないのですよ。多くの食品卸の会社は自分が売りたいものを売るのでしょうが、私たちは相手が欲しがっているものを責任もって納めるのですから、そもそものスタンスが違う。言われた通り、細かい単位だって納品します。しかも確実に。やがて「加藤に任せておけば絶対に大丈夫だ」という信頼感が口コミで広がっていって、どんどん納入先が増えていきました。ピーク時には取引企業が300社以上にも上り、事業所レベルで考えたらその2倍から3倍はありますから、13台のトラックにぎゅうぎゅう荷物を詰め込んで、時には屋根にまで積んで毎日フル回転という状況にまでなっていました。

――その後は、どのように経営の舵をとり、会社を躍進させていったのでしょうか。

前回の反省から、営業力の強化だけではなく、社内体制作りにも注力。私がイケイケの人間なので、10歳上の女性で、きちんとバックヤードを守ってくれるような社員をナンバー2に据え、社内業務の仕切りを任せました。さらに私が40歳くらいになったときに社内教育制度を導入。社外から講師を招き、社員全員参加となる自己啓発研修を定期的に開催しました。

社員はもちろん、私たち経営陣も含めて一丸となって事業に参画していくために、企業理念やビジョンを制定。社名を「あったか市場」としたのもこの頃の話です。

――M&Aを意識するようになった経緯をお聞かせください。

――M&Aを意識するようになった経緯をお聞かせください。

一連のCI活動を通じて、実際に社員の士気も上がり、それに伴って事業も拡大。大手企業との取引も行っていましたし、埼玉を網羅し、一部、東京までエリア拡大を果たすまでになっていました。

そんな中、私の中でふつふつと介護事業への情熱が沸き立ってきます。ひとつは自分自身がダイレクトにお客様に触れ合いたいという気持ちがあったのと、実際にお取引があった施設の現状を目の当たりにする機会もあり、私だったらもっと入所者に寄り添った介護サービスができるのではという思いが生まれていたことに起因します。また、自分の母親も認知症を患い、要介護5の状態となっていて、“母が安心して入れるような施設”を作りたいという思いもあったのは確かです。早速、県に直接掛け合ったのですが相手にされず、たまたま現在の鶴ヶ島市長が落選していた時期、彼の中に“老人福祉に力を入れたい”という思いがあることを知ります。それならば一緒にやりませんかと、私が出資して、彼が施設長になって、現在の私どもの介護事業の原点となる「あったかホーム坂戸」を開設したのです。

最初は手探りで事業を進めていきましたが、私は本業である食品卸に注力し、ホーム事業は施設長に任せるという体制でも施設運営は順調に推移。ところが、施設長が再び市長選に出馬し、念願かなって再選を果たすことになりました。大変喜ばしいことではありましたが、当然、ホーム事業との兼務はできません。例のNo.2の女性社員に転属してもらって施設運営を任して、現専務と私と二人でこちらの食品卸事業を回していきました。嬉しいことに、ホーム事業が順調に推移し、社会的責任やニーズ高まりに応えるように拡大の一途をたどります。何百人ものお年寄りをお預かりしていると、どうしても私もホーム事業に力をシフトせざるをえなくなります。

確かに、世の中には介護事業をビジネスライクに捉え、“上手くやってしまう”経営者もいます。ところが私には、そういった割り切りができなかった。福祉に取り組むのだという100%の純然たる思いがなければダメだと。中途半端な気持ちで向かっては、そこで生活しているお年寄りがかわいそうですよ。

これは、26歳の時に自分で事業を始めたときから一貫して変わらず持ち続けている思いなのですが、“お客様に対して、自分自身が不満足なかたちでサービスを提供する”ことはできないし、パワーを分散すれば、いくら頑張ったって、半分の満足しか提供できないのですから、配慮が行き届くわけがありません。しばらくは専務に食品卸の事業を任せるという体制でだましだまし進めていましたが、悪いことに2か所目に開設した介護施設の施設長の選定に失敗。私がそちらに掛かりきりになって、状況が悪化した施設の立て直しを行わなければならない状況にまで追い込まれてしまい、私のパワーのすべてがそちらに向いてしまう。本当に苦しい時期でした。社員も不安を抱いていたのではないでしょうか。この状況を早く脱却して楽になりたいとばかり考えていました。

――M&Aを意識するようになった経緯をお聞かせください。

そんなときに、茨城で同じ食品卸業を展開している知人から、「自分の会社をM&Aすることにした」という話を聞きました。彼は、婿養子として入った、その伝統ある会社を自分の代でつぶしてはならないというプレッシャーと戦い続けてきた人で、M&Aを決断したことで、非常に気持ちが楽になったといっていました。

しばらくしてから、M&Aをサポートしてくれる会社からダイレクトメールをいただいたときに、茨城の例を思い出して興味を持ちました。

――最終的にM&Aを決断されたのは、どのタイミングだったのでしょうか。

――最終的にM&Aを決断されたのは、どのタイミングだったのでしょうか。

もちろん、当時はM&Aをするなどまったく考えていませんでした。ところが勉強の一環として話を聞いてみると、頭の中が非常に整理されます。事業を承継するには、社員に託すか、子どもに託すか、あるいは第三者がやるのか、その三択しかないと。それほど選択の幅がないのだということを自覚したのです。

すでに私の息子にはホーム事業を手伝ってもらっていたし、娘も子育てをしながら食品卸の会社の方にパートタイムでぽつぽつ入ってきてくれてはいましたが、どちらかがやれるかな?と思いつつ、8割がた“無理かな”と思っていました。能力の問題ではありません。これはもう、子どもにつらい思いをさせてくはないという親心ですよ。食品卸はある意味成熟した産業です。子供の代になると、会社を守るだけになるんですよ。守るだけでは、事業を拡大していく喜びを味わうことができずに苦しい思いばかりをする。

それよりも、今、息子に任せているホーム事業に専念して伸ばしていったほうが楽しいのですよ。それは社員に対しても同じですよ。この先行き不透明な時代に、これまで一緒に苦楽を共にした幹部に会社を託して苦労させるより、彼らの雇用をしっかり維持してくれる他の会社に託したほうが良いのではないか、と。

一昔前の経営者であれば、“会社を手放すなんて、社員をどう思っているんだ?”という話になってしまいそうですが、私はむしろ、その逆の発想を持っていました。食品卸業は規模が勝負になりますから、大手企業と手を携えながら、共同仕入れや合理的に経営を進めていった方が、社員を守れるのではないかと考えたのです。

――ここからは、加藤様のご長女でいらっしゃる仲澤美有紀様を交えてお話を伺います。
ご家族の目には、加藤様が下したM&Aという決断はどのように映りましたか。

――ここからは、加藤様のご長女でいらっしゃる仲澤美有紀様を交えてお話を伺います。ご家族の目には、加藤様が下したM&Aという決断はどのように映りましたか。

仲澤 子どものころから、経営者としての父の姿を見てきていて、最初の頃は本当に楽しそうに事業に取り組んでいたのですが、介護事業と食品事業の両方を見なければならない時期は、本当に苦しそうな表情ばかりを見せるようになっていました。微力ではありますが、そんな父の力になれるのならと、私もあったか市場の事業にしっかり取り組んで、経理業務全般を任せていただくようになりました。しかし、介護事業の方がさらに忙しくなってきても、同時にこちらの事業も見ていただかなければならないという、板挟みのような状況になって、精神的にも肉体的にも追い詰められても、私たち家族は何も力になってあげることはできない…。本当に早く楽になってほしいと思っていました。ですから、M&Aの話を聞いたときには、純粋に子どもとして、“これで父が楽になれるのであれば”という気持ちが先行しました。

最終的には会社がどのような形になろうと、今の社員がここで今まで通りに働けるのであればいい。私がここに残ろうが残るまいがどちらでもいい。父が楽になって会社がそのまま続くのが望ましい、“幸せなカタチ”なのだと、そう思いました。弟は最初から納得していたわけではありませんでしたし、姉としては継がせてあげたいという思いがあったのは確かです。しかし、父の言う通り、彼が苦しむ姿も想像できたので、今任されている事業を一生懸命にやるべきだと話し、理解を示してもらいました。専務も正直いって、一抹の寂しさを抱えながら、「社長が決めたことなら私はそれを受け止める」と言ってくれました。社員も家族もみんな、父のことが大好きなんですよ。だからこそ父の選択に同意してくれて、一丸になって頑張ろうと、新しい会社を盛り立てていこうという気持ちになれたのだと思います。

――素晴らしいお話です。
加藤様は、買い手企業である西原商会さんに対して、どのような印象をお持ちでしたか。

――素晴らしいお話です。加藤様は、買い手企業である西原商会さんに対して、どのような印象をお持ちでしたか。

加藤 買い手となる西原商会さんは40歳の若手社長が率いる勢いある会社です。意思決定が速く、私たちの会社の将来的価値をしっかりとした目でとらえ、評価してくださいました。特に新規事業としてスタートしたばかりの献立つき食材提供ビジネスの可能性を認め、そこを伸ばしたいと明確な方向性を示しています。どうしても価格競争に晒されがちな業界にあって、そこからの脱却を図る道筋を示してくれたことで、社員たちを安心してお任せできると確信しました。

M&Aの契約まではとんとん拍子に進みました。30年間やってきた会社ですから、様々な思いが頭の中をよぎったのは確かですが、しかし私はこれで、介護事業に注力が出来るのだという安堵と、新たなチャレンジに対する意欲が同時に湧き上がってきました。

現在、介護業界にとって激動の時代が到来しています。そこに立ち向かっていくんだと、そんな意気込みも新たに自覚し、現在も全力投球で事業に取り組んでいます。また、こちらの「あったか市場」においては新工場設立の計画が進んでいます。大きな投資となりますので、私が社長だった時代にはなしえなかった大きく新たな動きですね。私の娘がその新工場の責任者として抜擢されたのも、大変ありがたい話で、西原社長には大変感謝しています。私たちは介護という分野において、そしてあったか市場は食品という分野において、それぞれが地域にとって必要とされるサービスを提供できればと思っています。

――あったか市場の未来について、仲澤様の思うところをお聞かせください。

――あったか市場の未来について、仲澤様の思うところをお聞かせください。

仲澤 新しい工場の責任者を任せていただいて、西原社長には大変感謝しています。私がここに残ることで、継続雇用されている従業員の皆さんもすごく安心してくれて、もっと頑張るという気持ちになってくれたのは非常にありがたいです。

このM&Aが成功したかどうかは、今後の私たちの頑張りというか、任されることになった新事業の成功によってはじめて証明されるものと思っています。西原商会にとっても、旧メンバーにとっても、このM&Aが価値あるものだったと感じられるような結果が残せるよう頑張ってやらせていただきます。

――M&Aが成立して、一年以上が経過しました。
一連の出来事を振り返ってみて、加藤様は今、どのような感想をお持ちですか。

加藤 M&Aを経験して、会社って何なのを考えるようになりました。やはり中小企業ですと、“俺が作った会社”という意識が強くなって、“俺が社長だから成り立っている”と思い込みがちなのですよね。 しかし、ある程度の規模になってくるとそうではなく、それぞれの役割を持った社員たちの集合体が会社を作っているのだと、行き先を示して、それをチェックしてくれるトップがいれば、皆が力を発揮できるのだということを学びました。

以前に、アーキテクツ、すなわちカタチとマネジメントは違うということを教わったことがあって、当時はよく理解できませんでしたが、今ならその意味がすごくよくわかります。事業のカタチを作ってマネジメントする優秀な人を作れば、もうカタチを作った人は不要になるんだとね。それぞれに専門の役割があるのだと。会社には使命というものがあり、あったか市場と介護のあったかの家にはそれぞれ使命があることも気づきました。

幸いこの年になり、介護という人の人生を追求できる仕事を得ることができたことはとても幸せです。人生をかけてこの仕事を追求していき、地域にあったかの心を育んでいきたいと思っています。

人生をかけてこの仕事を追求していき、地域にあったかの心を育んでいきたいと思っています

(文=伊藤秋廣 写真=伊藤元章)2016/08/24

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