テレビ業界のヒットメーカーが選んだ、
新たな挑戦を始めるためのM&A
TBSの名物プロデューサーとして「筋肉番付」「SASUKE」「世界陸上」といったヒット番組を次々に世へ送り出し、スポーツバラエティに革命をもたらした樋口潮氏。独立後に手がけたスポーツ型アミューズメント施設「ニンジャ☆パーク」は、コロナ禍を乗り越え、全国各地への出店にも着実に成功し始めていた。順調に成長する事業を、株式会社くふうカンパニーホールディングス(関連会社)に譲渡したのは、2023年のこと。このタイミングで第三者に託す決断をするまでの経緯や、その後の新たな展開について、株式会社ゴールドエッグス 前代表取締役社長の樋口潮氏にお聞きした。
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譲渡企業
- 会社名
- 株式会社ゴールドエッグス
- 所在地
- 東京都港区
- 事業内容
- スポーツ型アミューズメントパーク施設運営事業、スポーツスクール運営事業
- M&Aの検討理由
- 更なる成長発展のため
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譲受企業
- 会社名
- 株式会社くふうカンパニーホールディングス
(関連会社) - 所在地
- 東京都港区
- 事業内容
- 住宅・不動産事業、ファミリー向けデジタルコンテンツ事業などの生活関連サービスをグループで展開
- M&Aの検討理由
- 事業拡大のため
挫折から始まったテレビ人生が花開いたとき
はじめに樋口様がテレビ業界を志した経緯を教えていただけますか。

大学では理工学部に在籍していましたが、研究職には関心がありませんでした。ちょうど身近にTBS(株式会社東京放送、現・株式会社TBSホールディングス)に勤める先輩がいて、その方から話を聞いて入社を希望しました。幼い頃に、野球に取り組んだ経験などからスポーツに関わる仕事に携わりたいと思っていました。
ところが、配属先は放送業務局という技術系の部署で、最初は不満でした。ただ、数年後、私の面接官だった方が「お前はスポーツをやりたくてTBSに入ったはずだ」と、スポーツ局長に直談判してくれ、急転直下でスポーツ局への配属が決まったのです。
念願のスポーツ局で、最初はニュース番組のスポーツコーナーを担当しましたが、ここで師匠にあたる方に徹底的に鍛えられました。企画、ロケ、編集、台本作成と番組作りのすべてを教わったと言っても過言ではありません。何度も台本の書き直しを命じられた挙句に、師匠がすべて書き直すという経験もしました。厳しい指導もありましたが、私のプロデューサーとしての原点は、間違いなくこの時にあります。
修行を積みながらも、私は新番組の企画書を次々に作り出していました。スポーツ局の社員は、中堅の年齢になると営業に異動して大企業の担当になるキャリアパスが主流でしたが、ようやくスポーツに関われた私は、制作現場を離れたくありませんでした。番組を作りたくてテレビ局に入ったわけですから、とにかく企画書を書き続けて、自分で番組を作れる立場を確保しようと必死だったのです。
90年代前半のバルセロナ五輪、広島アジア大会と大きなスポーツイベントで中継の実績が認められると、私が過去に出していた膨大な企画書が掘り起こされることとなりました。スポットライトを浴びた私の企画内容は「どの競技のアスリートが最も運動能力が高いのか」という私自身の興味に沿ったものです。誰にも身近な跳び箱を何十段と積み重ねたり、50m走をやったり、さまざまな基礎的な種目を一流スポーツ選手に競わせるシンプルな内容でした。これが「筋肉番付」のルーツです。
大物選手が出演したことで、人気も高まっていきましたね。

人気絶頂だった清原和博選手(当時・西武ライオンズ)の出演を取りつけたことは、大きなターニングポイントになりました。番記者と呼ばれる方たちでも近づけないオーラがありましたが、私はそうした空気に臆するタイプではありませんでした。しかしこの行動は、以前に萩本欽一さんへ出演を依頼した時と同様、社内で大問題となりました。「一介の社員が業界慣例を超えて、独断で超大物にアプローチするとは何事か」というわけです。清原選手も、私たちが「大将」とお呼びする萩本さんも、自らの意志で出演を快諾してくださったにもかかわらずです。
とはいえ、こうして大物ゲストの招へいに成功したことも影響して、「筋肉番付」は高視聴率をたたき出し、レギュラー番組化。さらにゴールデンタイムにも進出しました。「SASUKE」はもともと、この番組から派生したスペシャル番組でしたが、いつしか人気となり、今や世界各国でも放送されるコンテンツとなりました。「世界陸上」の総合プロデュースを当時の社長から直々に依頼された際にも、自分自身も含め、日本では当時「陸上」というコンテンツに興味を持たれていなかったので、“陸上のトップアスリートの凄さを著名人が視聴者代表として視聴者とともに見よう!という陸上ガイド的な演出方法を思いつき、それが話題となり、人気に火がついたのです。
独立後は予想外のトラブルに巻き込まれるも再起を果たした
その後、TBSを退社し独立を選んだ経緯を教えていただけますか。
2002年、「筋肉番付」の収録中に事故が起きたことをきっかけに、メディアからの批判が集中しました。局内でも働ける環境ではなくなり、翌年に退社を決意したのです。独立後は、他局の番組制作を手がけながら、ミュージカル事業にも参入しました。事業は順調に拡大し、上場も視野に入れ始めていましたが、上場準備の段階で予想外のトラブルに巻き込まれてしまいました。一言で言えば、私に隙があったと言わざるを得ません。知人から紹介を受けた人だったにもかかわらず、初めから悪意を持って会社に入り込んできたことが後で明らかになりました。初対面の際、かすかな違和感を覚えていたのに信用してしまったのは痛恨の出来事でした。
プロデューサーやクリエイターとしての実績はあったかもしれませんが、経営者としてはあまりにも無知で未熟でした。この現実をしっかりと受け止めたうえで、ゼロから経営を勉強し直そうと決めて、立ち上げたのがゴールドエッグスでした。
代表的な事業である「ニンジャ☆パーク」はどのように育てたのでしょうか。

当初は、Jリーガーになりたい子どもたちを育成するスクール事業を展開していました。会員は1千人以上規模まで増え、順調に事業基盤を固めていたところでしたが、転機となったのは2019年です。YouTuberグループとの協業をきっかけに、アスレチック型のエンターテインメント施設をプロデュースしました。東京五輪の開催も見据え、インバウンド需要も取り込める名前で「ニンジャ☆パーク」と名づけて展開することとなったのです。
テレビに出てくるようなアスレチックを一般の方が体験できる舞台を作ることには、とてもワクワクしました。1号店の場所は、候補物件の中でもあえて立地の環境が最も厳しい茨城県古河市を選びました。駅から離れた郊外でも成功すれば、どこにでも展開できるという確信があったからです。目論見通り、オープン直後から1時間待ちの行列ができるほどの人気を獲得できました。

その後、コロナ禍で一時的に停滞を味わいましたが、ほどなく大手デベロッパーから声をかけていただき、テナントが続々撤退していた商業施設への出店が決まりました。これで、わずか数年で11店舗まで拡大することができました。
拡大基調の中で、なぜM&Aという選択肢を検討するようになったのでしょうか。
コロナ禍も落ち着き、「ここから20店舗、30店舗に」とアクセルを踏もうとしましたが、その成長スピードに資金力が追いつかなくなっていたのです。好調な店舗もあれば、そうでない店舗もあり、潤沢な資金が手元にはある状況ではありませんでした。その間にも、魅力的な物件は我々のことを待ってくれないと考えると、焦りもありました。そこでふと冷静に考えると、ここからは資金力のある組織に任せれば、もっとこの事業を伸ばせるのではないかと思ったのです。
すでに社員やアルバイトも含めると従業員が100名以上の組織になっており、彼らの将来を考慮しても、安定性のある基盤が必要だと思い始めました。私の強みは、何もないところから創り上げる、いわゆる「ゼロイチ」と呼ばれる工程にあります。しかし、その「1」を10や100に育てるのは、得意とする人にはかないません。ぼんやりと、自力で金融機関から資金調達する方法の他に、M&Aという他者に経営を委ねる道にも少しずつ関心が向くようになりました。
M&Aキャピタルパートナーズとの出会いについて教えてください。
非常に珍しいケースだと思うのですが、「知り合いがM&Aによる事業譲渡を検討しているようだ」と私の知人が先にM&Aキャピタルパートナーズに問い合わせを入れたそうです。それほど親しい間柄ではなかったので驚きましたし、最初は関心がなかったのでお断りしました。ただ、ちょうどこの時期に「ニンジャ☆パークを譲り受けたい」というメールが何件か届いていたため、M&Aとはどういう方法なのか、どのようなメリットがあるのか、興味が湧き始めてもいました。

過去にM&Aのご支援をしたオーナー様などから、お知り合いの経営者様をご紹介いただくケースは多々あります。しかし今回のご紹介者は、私たちも存じ上げない方でした。私も経緯をお聞きして戸惑ったくらいですから、樋口様はさぞ驚かれたことでしょう。ただ、M&Aとはどういう内容なのか、一度話は聞いてみたいとおっしゃっていただき、ご面会の機会をいただいたのです。インターネットで検索すると、樋口様の輝かしい制作実績が次々に表示されました。これらを拝見し、テレビ業界の伝説的なクリエイターとお会いすることに、いつも以上に緊張したのを覚えています。
お会いした際、本当に真摯で純粋な経営者様だと感じました。初対面の私に、これまでの事業のこと、ご自身の価値観、現在の課題や将来の希望など、包み隠さず話してくださる姿に感銘を受けました。樋口様や従業員の皆さんのためにもよいご提案、よいご支援をしたいと心に誓いました。
井野さんには失礼なお話ですが、はじめは全く期待していませんでした。井野さんたちのM&A仲介に賭ける情熱も知らず、話だけ聞いてみようという感覚だったことは否めません。しかし、こんなに誠実で、物腰も柔らかく、しっかりとしたバックグラウンドを持っていらっしゃる方なので、お会いしているうちに、「これは井野さんにお任せしたほうがいい」と気持ちが傾いていきました。
ただ、M&Aを望む気持ちが増してくると、自身の手で事業を伸ばそう、もしくは維持しようという意欲が薄らいでしまうのです。裏を返すと、熱中すればとことん集中力を発揮するタイプとも言えるのですが、当時は気持ちの整理が難しかったです。

これは樋口様との関係に限ったことではありませんが、私はM&Aありきではなく、あくまでフラットに情報提供することを心がけています。目的は、すばらしい事業を望ましい形で存続させること、またお客様にも喜んでいただきつつ、従業員の皆さまが安心して働ける環境を確保することです。それが達成できるなら、M&Aが絶対ではありません。株式の内部承継や資金調達を選択することがよい場合もあるでしょう。どの選択肢が最善かを比較検討していただきたいと考えています。
ニンジャ☆パークは、一定以上の設備投資を伴う店舗ビジネスです。その厳しさ、さらに成長速度を追求しつつ、キャッシュマネジメントの正しいバランスを取るのはとても難易度の高いミッションだと感じました。これらをクリアできる資本力と経営ノウハウを持つパートナーが望ましいのではないか、と考えるようになりました。
力をあわせて事業を伸ばそうという姿勢に好感をもった
お相手探しのプロセスについて解説していただけますか。
今申し上げた資本力と経営ノウハウのいずれをもお持ちのデベロッパーやコンテンツ企業、投資ファンドなど、幅広く候補をご提案いたしました。樋口様が育ててきたビジネスを理解し、維持しながら成長させられる方であることを条件に、候補を絞り込んでいきました。

5社ほどとお会いし、最終的に今回の譲受企業を選びました。決め手は、やはり人との出会いでした。後にゴールドエッグスの社長となる新野さん(新野 将司氏=株式会社くふうカンパニーホールディングス執行役)と初めてお会いした時から感じたのは、この事業に対する熱量の高さでした。「一緒に新しい価値を作りたい」という姿勢が伝わってきました。
くふうグループの創業者である穐田(誉輝)様も、樋口様との会食をきっかけに、ゴールドエッグスの事業に強い関心を示されました。新野様も、ビジネスモデルのユニークさを高く評価して、「我々の手で成長させたい」とおっしゃっていました。資本力だけでゴールドエッグスのビジネスを引き継ぐのは難しいはずですが、その点で情熱あるリーダーが率いるくふうグループは最適なパートナーになり得ると感じていました。

M&Aでは、経営面の数字が重要なのは言うまでもありませんが、新野さんの姿勢からは数字だけで判断せず、本質的に面白いと言えるものを作りたいという思いが伝わってきました。このような業種を越えた巡り合わせこそが、ご縁なのだろうと感じていました。ただ、先方の社内では慎重なご意見もあったようですね。
譲渡企業が優れたビジネスであるほど、譲受企業が慎重な検討を進める傾向があるように思います。特に全くの新規事業ですから、あらゆる角度から投資判断をするのは当然とも言えます。もちろん、樋口様のお立場では、複雑なお気持ちになったこともあったかと思います。
「ニンジャ☆パークの集客力は一過性で、やがて世間に飽きられてしまうのでは」という将来の成長への懸念があったそうです。私たちは事業計画に自信を持っていましたが、もしダメだったら、M&Aは諦めて自力で資金調達する道を探るつもりでした。この間、従業員には打ち明けられず孤独でしたが、相談相手として井野さんがいつも近くにいてくれました。かなり頻繁に電話をかけていましたが、その存在がどれほど心強かったかは、言葉では言い尽くせません。
ありがたいお言葉です。私ができることは、樋口様のご決断に寄り添い続けることだけでした。フラットに情報を提供し、交渉すべきことは全力で行いました。しかし最終的には、樋口様が納得して決断できる状態にすることが何より大切だと考えていました。M&A意外の選択肢にもどんな可能性や課題があるのかを丁寧にお伝えしました。
120年時代の人生はまだ折り返し。自身は新たな挑戦へ
成約の際はどのような想いでしたか。
決まった時は、意外とあっさりしていました。それまでの苦労や思い、さまざまな葛藤が、すっと抜けていく感覚でした。私の中で大きな変化があったのは、人に対する信頼を取り戻せたことです。過去の経緯もあり、特に会社経営をめぐっては人間不信になっていました。でも、井野さんに対しては100%信頼できたのです。もし、この人の誠実さが嘘だったとしても、それはもう仕方がないと思えるほど、全幅の信頼を置くことができました。

私は岐阜出身で、山奥から米国の大学を経て会計士の資格を取り、投資ファンドなどでキャリアを積んできました。自分なりに他の人とは異なる挑戦を繰り返してしてきたつもりですが、樋口様のようなこれまで触れ合ったことのないクリエイティブの世界で実績を残してこられた一流の方、若い頃にずっと大好きだったコンテンツを創られた方をご支援できたことは、私にとって本当にありがたい経験でした。
私が樋口様を最も尊敬している点は、年齢を重ねても変わらず挑戦する姿勢です。守りに入らず、純粋な好奇心を常に追求される生き方は、私自身もぜひ学びたいと思っています。
成約してから2年ほど経過しました。その後の会社とご自身の様子をお聞かせください。
社長を退き、顧問として関わってきましたが、上場企業ならではの安全面への配慮やコンプライアンスなどを間近で見られるのは、とても勉強になりました。一方、現場のやり方や価値観を十分に尊重してもらい、時間をかけてPMI(M&A成約後の統合プロセス)を進めていただけたことには感謝しています。異なる業界、異なる組織がともに歩む難しさを感じる場面もあるはずですが、残った幹部社員がイキイキと働いてくれているのは頼もしい限りです。
これからは人生120年時代と言われ始めていますから、60歳はまだ折り返し地点です。そう考えると、再びゼロから事業を始めてみたいという気持ちになります。M&Aから1年ほどは充電期間を過ごしましたが、今度はスポーツだけでなく、音楽やエンターテインメントを融合させた新しい提案にも取り組みたいと思っています。
最後に、これからM&Aを検討される経営者の方々へ、メッセージをお願いします。
今後、M&Aという手段が有効になるケースは多いように思います。会社経営から一度離れ、私のようにもう一度挑戦を始めたい方もいらっしゃるでしょう。もちろん、どの道が正しいということはありませんが、ご縁と担当される方との相性を大切にしていただきたいと思います。
井野さんのような信頼できる方にお会いできた私は、幸運でした。「この人を頼ろう、この人しかいない」と思えたので、他社の方とは一切お会いしませんでした。しかし、そうしたパートナーに出会うまでは、さまざまな情報収集をして、自分で縁を引き寄せることが大切だと思います。
本当に光栄に感じ、尊敬する樋口様のご支援ができたことを誇りに思っています。M&Aの経験がない方は、ただの株式承継だと思われるかもしれません。しかし本質は、事業を存続させ、お客様に喜んでいただき、従業員の雇用を守り、さらに成長の機会を提供するための手段です。
また、オーナーご自身にとっても、樋口様のように新たな挑戦を行うからこそM&Aを選ぶ、という考え方もあります。ご勇退だけでなく、新たなステージへ進む手段としてM&Aを捉えるのも一つの視点として、経営者の皆様の参考になるのではないでしょうか。

文:蒲原 雄介 撮影:平瀬 拓 取材日: 2025/10/14
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