「スタッフも顧客も幸せになる
成長戦略の一環としてM&Aを選択」
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株式会社メイン
桐朋学園短期大学卒業後、「第1期ポーラエレガンス」「第15期日産ミス・フェアレディ」「第9期三越ファッションシスターズ」等、常に広報宣伝販売促進活動の第一線で活躍。その後、人材会社にて教育指導法を学ぶ。1988年10月に総合人材コーディネーション会社として株式会社メインを設立。経営者としてマネジメントに携わるかたわら数多くの実務経験より得たノウハウを基にCSを中心とした教育の講師として、また経営者対象の研修会・講演等幅広く活動中。講演会は通算900本以上。
株式会社メイン
大妻女子短期大学家政学部卒業後、服飾デザイナーを志し田中千代服飾専門学校デザインコースを経て株式会社キャラバンにデザイナーとして就職。結婚を機に専業主婦となる。その後、妹である山尾百合子氏より会社の経理をみてくれないかという要望があり、一念発起し、1年間経理、簿記を学び、簿記の資格を取得。1996年10月より株式会社メインに入社。それから20年間にわたり株式会社メイン取締役管理本部部長として、経理、人事、総務のバックヤードを守ってきた。M&A後は顧問として残り、今後の企業成長を見守る。
まずは山尾様が株式会社メインを創業された経緯からお聞かせいただけますか。
父は130年前に創業した、今でいうところのベンチャー家系の3代目社長。私は3人兄弟の末っ子に生まれたということで、子供のころから随分、好きなことをやらせてもらいました。TVに出演したいと劇団に入って、3歳の頃に芸能界デビュー。トヨタのパプリカのCMに出演したり、アニメソングを歌ったりしながら、子どもながらにキャリアを積んでいって、高校生になったころには「新青い三角定規」という歌手ユニットに参加。堀越学園の芸能コースに通いながら、テレビやラジオ、コンサートに出演という日々を過ごしていました。
ところが、それもわずか2年で解散。少し暇になって、周りにいたプロ意識の高い生徒たちに目を向けると、高校生ながらに、“ここにいてはいけない”と感じ、あっさり芸能活動を捨てて、ごく普通の短大に進みました。けっこう割り切りが速いというか、身の程を知っていたのですよね。芸能界に身を置いていると、シビアな大人の世界を否が応でも体感できますし、自分を売っていくためのビジネスのセオリーみたいなものもおぼろげながら見えてくる。それが今の私の中にあるビジネスに対するベースみたいなものになっているのかもしれません。
短大を卒業した後は、学校に求人票が掲示してあったポーラ化粧品の「第1期ポーラエレガンス」に応募して合格。一年契約の年俸制という待遇で、ポーラ初となる直営店の運営スタッフとして、2年間に渡り広報宣伝関係のお仕事を経験しました。その後、日産自動車「第15期ミス・フェアレディ」、そして三越「第9期三越ファッションシスターズ」を歴任。いずれも一定の期間が定められた契約社員という立場だったので、いずれは卒業せざるを得ないのですが、それぞれの企業で化粧品、車、生活必需品全般を扱い、さらにモデルも裏方の仕事など、一通り全部やらせていただいた経験は大きいですね。人に何かを伝えていくことが私の強みであるという認識を自覚した時期でもありました。
そういった経験の中から、大手広告代理店や制作会社とのつながりができてきます。26歳の時にはそういった人脈を活用して、司会業やキャスターとしてTVやラジオ番組に出演したり、ディレクションや台本書きまでフリーランスで請け負うようになっていました。当時は、派遣法が制定され、コンピューターの時代が目の前に到来しつつあり、東京ディズニーランドや幕張メッセが誕生した時期。さらに“地方創生”というキーワードがクローズアップされ、日本各地で博覧会ブームが訪れ、どんどんコンベンションが増えてくるというお話を代理店の方々からお聞きしていたのですよね。だから“山尾みたいな人が10人くらい揃えられない?”なんて言われるのですよ。
そこで、ポーラや日産、三越の後輩にあたる、スキルを持っている女性たちの“卒業後の受け皿”を作ろうと思い立ちます。どうせやるのだったら会社にした方がいいかなと考えてメインを創業。私が31歳の時でした。
その後は、どのように経営の舵をとり、会社を躍進させていったのでしょうか。
創業してすぐに、ツアーのように全国を回りながら開催される展示会の仕事を得て、勢いに乗っていたのですが、ちょうど昭和天皇が崩御され、一気に自粛ムードが広がり、イベントが中止になってしまいました。そこで一切仕事がなくなり、いきなり追い込まれてしまったのですね。どこまで自粛が続くのかと不安にもなりましたが、当時はほとんど私ひとりで会社を切り盛りしていたので、無駄な出費は抑えながらなんとか乗り切りましたね。
自分を追い込まないと火がつかない性格だったので、自宅でも仕事ができたのですが、あえて池袋に小さなオフィスを借りて、全力で立て直しに図りました。
やがて平成の時代がやってきて、今度はそこから博覧会ブームにうまく乗って、自粛ムードの反動のように急に忙しくなります。当時はモーターショーがすごく華やかに開催された時代。大手広告代理店からいただくお仕事も多くなり、イベントの企画や演出に合わせた人をキャスティングして教育をして御提供するといった、人をうまく回していくようなシステムを構築していきました。
次から次へとお仕事が舞い込んできて、それから10年間ほど、全国で開催される博覧会のほとんどに絡んでいましたね。
多くのお客様から、それほどの信頼を集めてきた要因は、どのように分析されますか。
イベントや博覧会が華やかに開催されていた当時といえば、モデルエージェンシーや芸能プロダクションが手配する“ナレーター・コンパニオン”という肩書の女性がいて、コンピューターや車のような男社会の製品を説明するのが非常に受けた時代だったのです。需要があったので、当然、そういう女性を派遣する事務所が乱立していったのが、お客様曰く、“山尾さんの会社みたいに、しっかりした女性を集めて、しっかり契約を交わし、フィルターを掛け教育をし、御提供する会社が他にはなかった”のですよね。リスクマネジメントをしながらキャスティングする会社は見当たらなかったので、恐らくそこがすごく重宝されたのです。“メインに頼むとちゃんとやってくれるから”と。そういった“信頼性”が大切だというのはフリーランスで活動していた時代に、身をもって理解していたと思うのです。
周囲で起こっていることを冷静に見つめながら、その都度、しっかり自分の糧にしていくような習慣は、子どもの頃に芸能活動をしていた時代から身についていたのでしょう。
結局、私たちのビジネスって、ライセンスを持っているわけではないので、基本的には経験がいきているというか、それしかない。ただし、経験というものには賞味期限はあるなと思っていました。
ある程度時間が経って、時代が進んでいくと、もっと違う経験をしている人が出てきて第一線で活躍するようになる。そこはうちのビジネスモデルの弱さでもあると思っていたのです。
M&Aを意識するようになった経緯をお聞かせください。
私が年を取らないのだったら、この会社をずっとやっていきたいと思っていました。ところが、私はもちろん、苦労を共にしてきたお客様も年齢を重ねて、これまでとは違った人生のストーリーを描くようになってきます。
皆さん、偉くなって現場から離れていくと、“山尾さん、もう私は発注権ないから”という話になってくるのですよ。確実に時代が変わっている。私のことを知らない担当者ばかりになっていくのですよ。「うちの理事からお話は伺っています」とか、「先代から聞いています」とか、そういう話になってくる。たまに商談の場に居合わせたら、場違いというか、妙に気を使われてしまうようになって、ということは、私はここには必要ない人なんだなと思ったのですね。もっと違った展開を考えるべきだと。
オーナー会社というのは社長が引っ張っていると思うのですよね。良くも悪くも社長のカラーがその企業体質と同義になる。すごく尖っていて、私より優秀な人になってもらいたいと思いながらも、一方では、私自身がその機会をつぶしていた部分もあったと思います。山尾という色がついた会社をこれからどうしていくべきか?ということに考えを巡らすようになっていたのです。
こういうオーナー会社ですから、上手くいっているときに解散して、従業員に資産を分配したり、次の仕事を紹介するという道もあるかもしれないなとも思いました。でも、社員たちが頑張ることで夢を描くことができたり、可能性が開けるようなスキームを作る力が私にはもうないなと感じていました。
うちのスタッフを守れるということは、お客様も守れるということになるので、スタッフがやはりここの会社にいて、苦労もあるけれど将来性あるよねと感じてくれるようにしたいなと考えました。もちろん、個人的にも株式会社メインは継続していきたいと思っていました。私には子どももいませんでしたから、この会社が子どものようなもの。私が死んでも残っていくような会社にしたいというのが、昔からの夢でした。
上場という選択肢もありました。経営者にとっては大きな夢であることは間違いありませんし、勢いに乗っている時には、それも手に届きそうな状況にありました。でも、そこでふと足を止めて、“私は一体何をしたいのだろう”と一回、自分に問いかけてみたのですね。
会社を大きくしたいわけではない。大きくして誰が幸せになるのだろう?と思うと、私も社員もそれほど幸せにはならないだろう。そう考えると、自分の身の丈に合ったビジネスモデルはこの辺だなと思ったりもしていたのです。
会社を残していくとなると、社内から後継者を探したり、あるいは株主や銀行に入っていただくなど、様々な会社承継のカタチがあるとは思うのですが、資本を入れて株価や配当を気にするだけではなく、私たちとともにしっかり痛みを引き受けてくれる人、一緒に汗をかいてくださる方々とご一緒させていただきたいと思っていたのです。
正直言って、しっかりと内容を理解していない段階ではM&Aに対して、買収によって企業がめちゃめちゃにされたり、大切な会社をモノ扱いされているような、ネガティブなイメージしか持っていませんでした。ところが10年ほど前から様々なセミナーに出席し、あらゆる方法論を模索している段階で、M&Aも成長戦略のひとつとしてありだなと考えるようになっていました。
最終的にM&Aを決断されたのは、どのような理由だったのでしょうか。
どうやったらうちの会社を続けていけるだろう?どういう風にするのが一番、みんな幸せになれるのかを考え、色々な方法論について勉強し、比較して検討すればするほど、M&Aしかないと思うようになっていました。
とはいっても、それはうちの会社に興味をもってくれるお相手と、こちらの希望条件があってはじめて成立する話。そんなタイミングで、M&Aキャピタルパートナーズの担当者の呼びかけに応じて、具体的にお話を聞かせていただきました。
会社の業績は決して悪い状況ではなかったので、割と気持ちに余裕を持っていましたね。少しでも疑問を感じるようなお相手と無理にご一緒しなくても、まだウチはいけますからと、何度もご担当の方にお話をさせていただきました。担当者の方も私のスタンスを理解してくださいましたね。
M&Aを進めるにあたって、これだけは守っていきたいという思いや条件はございましたか。
M&Aを進めるお相手先については、私の願いをすべて書き出し、それをすべて認めてくださる会社にお願いしたいと伝えました。あくまで、このM&Aは私の利益を第一優先とするものではなく、うちの社員が幸せになるための成長戦略の一環ですと、だから給料があがるかもしれない、それから色々な可能性が広がるかもしれない、独立独歩でやってきた山尾百合子が実現しえなかった新たな世界を示してほしいという思いが根底にありました。
人って変化が一番怖いじゃないですか。場所が変わる、社名が変わる、社長が変わるとなると、対外的にも社内的にも不安を与えてしまうことになる。ですから、もちろん必要となれば段階を経て変えていくのは仕方がないとして、成立してしばらくは、メインという名前を継承してほしい、場所もここでやってほしい、それから私も当面は代表としてやらせていただきたいと、そういった条件を細かくお伝えしました。
全部で10項目ほど提示させていただきましたね。書いてみると、こだわっていることは何か、自分で整理できるのですね。
やはりオーナー社長にとっては、会社は自分の体の一部みたいなもの、あるいは子どもみたいなものですから、体の一部をもぎ取られるような、自分のかわいい子供を嫁に行かせるような、そういう感覚なのです。痛みを伴うからこそ、妥協せずにしっかり自分の思いを伝えたかったのです。
譲受け会社であるシイエム・シイ様の印象はいかがでしたか。
確かに条件も大切なのですが、相性も大切な気がしていたのですよね。そこは結婚と同じような感覚で、経歴も大切ですが、それ以上にフィーリングも大切。まずは恋愛のような感覚があって、それからデータを確認する段階を踏んで結婚するような。第一印象から、シイエム・シイさんと一緒になると、良い家庭ができるかもしれないという感覚がありました。
初回面談時には、社長と経営陣の方々も5人ほどいらしてくださいまして、とても好印象で楽しく夢を描くことができて、あっという間に時間が過ぎてしまったような印象があります。一般的には社長が強い企業ですと、周囲の人が社長の顔色をうかがいながら話しをするものですが、シイエム・シイさんにおいては、そういうのがまったくなく、皆さんが自分の言葉で自由に話してくださいました。
社長もざっくばらんで温かく、お人柄もよかった。その時に受けた印象は、実際に一緒にお仕事をするようになった今も全く変わらず、あの選択は正しかったと、ことあるごとに実感しています。
M&Aが成立した時の率直な感想をお聞かせください。
M&Aというのは、調印してからが本当の始まりだと思っています。ここまでの道はあくまでプロセスの一部であり、これを成功させるためにはこれからの私の努力も必要だと感じています。
M&Aは入口に過ぎません。でも、ドアを開けるタイミングは重要だと思っています。
今、このドアを開けなければ次はない。開けるべきタイミングを逸して、ドアを眺めているだけの日々が続いていたとします。そしていざ開けようとしたときに、ドアが開かないどころか、もうそのドアがなくなってしまっている可能性があるかもしれない。タイミングを逸したことで、自分の会社の価値を認めて引き取ってくれる相手先もなくなってしまうでしょうし、そうなったときに誰が悲しむかといったら、それはお客様であったり、社員だったりすると思うのです。
今回のM&Aの決断に対して、知人からはよく「思い切りがいいよね」といわれるのですが、元々、そういう性格なんですよね、私は。
そのドアの向こうに何が見えたときに、今回のM&Aは成功だったと実感できるとお考えですか。
ドアをバーンとあけて、今、その向こうにあった道を歩み始めています。とりあえず私が定年になるまで代表を務めさせていただくことになっていて、そこまでかけてうちの会社の数字があがり、うちの社員たちの給料があがるという、道筋をつけていきたいと思うのです。私のゴールというより、そこまでが私の責任だと思っています。もちろん、そこで役目が終わるわけではありません。
ファウンダーであり続けることは間違いありませんし、その後も社会的責任というより、メインの創業者という責任は一生ついて回るのですから。これまでの経営者人生の中で最大にして最高の決断となりましたが、率直に、決断してよかったと思っています。
「会社って誰のもの?」という議論がありますが、私は社長個人のものではなく、自分のものではなく社会のものであると考えます。
社会のためになる会社を作り、それを継承し残していくという責任は重く、そして尊い。すべての経営者は、そういった思いや原点に立ち返り、会社を継承していくことを、早い段階から考えておくべきだと思うのです。
ここからは、山尾様のお姉様でいらっしゃる原まち子様を交えてお話を伺います。原さまは、この株式会社メイン様において、どのような役割を担ってこられましたか。
この会社で約20年間に渡り、経理、人事、総務職を取りまとめながら妹の仕事をサポートしてきました。役割も性格もぜんぜん違っていまして、私は少し消極的というか内気で、妹とはまったく正反対。自分でいうのもなんですが、縁の下の力持ちとしてメインの基盤を支えてきました。
入社したきっかけは、妹からのスカウトでした。以前に在籍していた経理の方が退職されるタイミングで、専業主婦だった私に“家計簿つけるようなものだし”と声がかかりました。経理の知識がまったくなかったので、公的な機関が用意する経理の講座に、一年ほど通って勉強してから入社を果たしたのですが、入ってみたら全然、家計簿とは違っていましたが(笑)。そこからなんとなく20年近く妹と苦楽を共にしてきました。
私としてみれば、身内がきてくれると機動力がアップするので、本当にありがたかったですね。堅実な姉が会社の金庫番としてきてくれるのならば、私としても安心できますし。
ただ、すでに会社も創業から8年ほど経過していたので、その段階で身内を入れるのは、対外的にもどうかな?という懸念もあったのですが、姉がしっかり勉強して資格までとってきてくれたので、もう何の心配もなく堂々と迎えることができました。その時もそうだし、こうしてずっと一緒に頑張ってきてくれたことに、ものすごく感謝をしています。
ご家族の目には、山尾様が下したM&Aという決断はどのように映りましたか。
5年ほど前から、“メインをどうすべきか、ちょっと悩んでいるんだ”という話は聞いていました。後継者もいないし、どうしたものかなと。ただ、その時は私としても、まだ先のことと漠然としか考えていなかったのですね。
ところが、それから2年ほど経ってから、“M&Aがいい”と説明してくれるようになって、いよいよ思いが固まってきたのかなと感じるようになりました。それで、いくつかの会社様とお見合いした中で、最終的にシイエム・シイさんがお相手先になったよという報告を受けました。経緯も聞いていましたけれども、私もそれでいいと思いました。
うちの会社がきちんと残って、スタッフがこのままでいられて、さらに大きな夢が描けるような会社になれる。妹もそうなることを願っているから、すごくいいと聞いたものですから、私としても異論はないと、そう思いましたね。
従業員の方々の反応はいかがでしたか。
もっとワサワサするかと思いきや(笑)、そうでもなく、意外にも皆すんなり納得したように見えました。やはり、M&Aをしたことで、まず自分たちはどうなるのかなという不安が生まれるかと思いますが、このままの状況で山尾も変わらないと、そして皆さんの待遇がアップできるような会社になるから頑張りましょうという話をしたら、何も質問もなかったですし、逆にみんな喜んで、良かったと思っているようにも見えました。
社員にとってM&Aというものがピンとこなかったのかもしれません(笑)。なんか変わったけれども社長もいるし、場所もここだし、なんか仕事が増えるらしい、くらいな受け止め方だったようです。
ただ一人の社員から、「100%売っちゃったんですか、社長?と、いうことは、社長の権限はないんですね?」という質問がきたので、それに対してきちんと説明しておいた方が良いと、その一週間後にもう一度全員を集めました。
第三者を交えることで、社長の私利私欲のためにM&Aを行ったのではないと客観的に説明できるとの助言をくださったコンサルタントの方をまじえて話をする機会を設けたのです。
わかりやすく図式にして、「こんなに条件の良いM&Aは、はじめてみた」「大変すばらしい話なんだよ」と説明してくださったんですね。そして「山尾さんは変わらずに力を持っています」と(笑)。むしろ、働くみんなの可能性が広がったとお話をいただいたおかげで、社内も活性化された感じがします。
そうそう。活き活きしてきたんじゃないかなと思いますよ。シイエム・シイさんから色々な新しい仕事を振っていただいたりしていますから。仕事は増えていますが、これをしっかりやっていけば、業務も良い感じで流れていくのではないかなと皆が感じていると思うのですよね。
先ほども申しましたが、妹も5年前からずっと、この会社をどうするかと悩んでいて、60歳くらいになったときに何とかしなきゃいけないなと常々言っていて、それがこういう形で決定して、ようやく肩の荷が下りたように見えます。そしてもっと自分でやりたいことに時間を注ぐことができるのかなと。
メインという会社はこれまで山尾ありきでお仕事をいただいていたので、もう少しスタッフ自身が自分の責任をもって、ある程度、自発的に動いていくようになっていければいいですね。そうなってくれば、妹ももう少し、講演だったり、もっとやりたいことに注力できるのではないかなと思っています。
お二人から今後の目標をお聞かせいただけますか。
これまでメインという企業として取り組んできた事業は、当然、すべて山尾百合子という人間の中なら生まれ、そして拡大していったものです。これを再び、原点に帰り、個人に集約して濃縮していきたいと思っています。
もちろん、表現し、皆さんにお伝えするという切り口は共通しているかもしれませんが、創業当時の自分とは立場も経験も違っています。
たとえば、私がこれまで経営者としてやってきたことは、現在、国が進めている女性の活用推進といったキーワードとリンクしています。私の経験値の中で語り、お役になれる部分もあるわけですよ。
また、このM&Aを含め、会社を継続することの意義についても、私の経験をお伝えすることで、同じようなお悩みを持つ経営者の方々のお役に立てるような気もするのです。そういったお話を講演やラジオ出演、執筆を通じて発信していければと思っています。特に、おしゃべりのほうが得意なのですが(笑)。
私は当面、顧問という立場で会社に残りますが、良いタイミングでバトンタッチができればと思っています。それまでは、これまで以上に会社に貢献できればと、思いも新たにしているところです。
今回のM&Aは、レアケースだとよく言われます。やはり相手様であるシイエム・シイさんのすばらしさを実感していて、私たちが買われた側になるのに、ものすごく尊重してくださっているんですね。
どの方にあっても「私たちの仲間が増えました」という言い方をしてくださいますし、誰一人、上からモノを言ったり、命令したり、“すべき”という物言いをされません。
本当に良い企業様とのご縁をいただいたと思っています。
M&Aキャピタルパートナーズの対応についてはいかがでしたか。
初めての経験ですから、比較はできませんが、結論から申しますと、大変対応が良く、まったくストレスなく進めていただきました。担当の方々は、よくありがちなギラギラした営業マンタイプでなく(笑)、どなたも品が良くて、信頼できる方ばかり。過去に他の仲介会社からM&Aの提案を受けた際は、事務的な対応で何となく嫌な気持ちになったのですが、M&Aキャピタルパートナーズの担当者は「会社を売りたい」ではなく、「会社を継続し社員をより成長させたい」という私の気持ちをしっかり汲んでいただき、その上でM&Aというひとつの選択肢を提案してくださいました。
M&Aというと大企業の話というイメージなので、ウチみたいな会社がM&Aの対象になるのか?こちらの希望が叶う良い相手が本当に見つかるのか?と心配していましたが、たくさんの候補を探してくださって、最終的に最適な会社をマッチングしてくださいましたね。やはり、経験したことのないM&Aを進める上では、私たちの会社の中身や思いをしっかりくみ取ってくれる代弁者の存在は必要不可欠。そういったM&Aキャピタルパートナーズは最適なパートナーとして私をサポートしてくださいました。大変、感謝しています。
(文=伊藤秋廣 写真=伊藤元章)2016/10/7